カテゴリー「米州」の記事

Straightedge Buddhist Strippers

 呼んだタクシーの運転手は若い男だった。こちらが言葉が話せないと思っていたのか、暫く無口に運転していた。

タクシーの車窓から見る木々は少し紅く色づき始めていた。

「オレゴンの秋はきれいだ」 僕はつぶやいた。

「そうさ、ここは綺麗なところだ」 彼が答えた。

話しが進み始めた。ここの出身かと聞いた。

「アイオワ州から3年前に来た」

「アイオワ州はどこだ?」

「五大湖の近くだ。何もないところだ。」

「何が有名なんだ?ポテトか?」

「ポテトはアイダホだ。アイオワはトウモロコシだ。」

「・・」

「トウモロコシ畑以外、何もないところだ」

「どうしてポートランドに出てきたんだ」

「ロックバンドやっているんだ」

「・・・」

「アイダホでスタジオの仕事をしていた。その時の仲間と、ポートランドに移ってきた」

「家族は?」

「小さな子供がいる」

「そのメンバーとバンドをしているのか」

「いや、メンバーは変わった」

「バンドの名前はなんだ」

「sbs」

「・・・何の略だ」

「Straightedge 」

「直線定規」

「Buddhist 」

「仏教徒」

「Strippers 」

「ストリッパー」

「・・・」

「・・何かいい名前じゃないか」

「ハハ」

「どこでやっているんだ」

「地元でやっている。今度、ツアーに出るよ」

「凄いじゃないか」

「シカゴ、。。。。。」

「早くビッグネームになれよ。夢があるな。日本からも応援するぞ。」

「ハハ、ありがとう」

訥々と話す彼。平和や環境保護の話にもなった。大体、ロックンローラーはロマンチストだと僕は思っている。

クルマはオレゴンの美しい林の間、そして緑豊かな住宅街を抜けていく。

そして目的地に着いた。

彼は、メモ用紙を取り出し、何やら書き込んでいた。そして、はにかみながら僕にくれた。

そこには、「 http://www.myspace.com/sbstrippers 」と書かれていた。

僕は、彼の名前を呼んだ

「Rob、ビッグネームになるの楽しみにしているぞ」

Cimg5148

PS: 日本に帰ってきて、そのメモ用紙のページにアクセスした。音が聞こえてくる。なかなかいいじゃないか。イカシタ音だ。昼はクルマを走らせ、夜はバンドでがんがんやっている彼の姿を想像すると何やら楽しくなる。

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シーク教徒とシリコンバレーのタクシー

「最近商売はどう?」

「いいね。特に今日はついている。朝一番にお客さんをサンノゼ空港まで送った。そして、今度はサンフランシスコ空港だ。昼過ぎには予約も入っている。今日は週末で道もすいている。クルマも飛ばせる。」

「GoodDay (いい天気だ)。」

「そうだ」

真っ青な青空というわけではないが、それでもすがすがしい朝の空だ。クルマはサンノゼからサンフランシスコ空港に向かって一路、101号路を走る。

彼はインド人に見て取れた。ねずみ色のジャケットを着ている。歳は40代に見えた。最近のシリコンバレーは、中国人とインド人が急増している。特に成長するソフトウェア産業では、インド人の力が大きい。GoogleやYahooもシリコンバレーに本社がある。昨日、会った単身駐在しているTさんが言っていた。ソフトウェアの技術者は、家でも仕事ができるから、昼から、住んでいるフラットはインドカレーの匂いでぷんぷんだよ。

「出身はどこ?」

「パンジャブのディランダだ。」

パンジャブと聞いてインドと判った。ただディランダという街は知らない(Dinanagarの事か?)。

「何時アメリカへ?」

「20年以上前だな。」

その後、話のやりとりの中で、彼が今年39歳、まだ小さな4歳の長男と娘が居る事を知った。日本にはまだ来た事はなかった。

パンジャブ、20年以上前。。。思い出すところがあった。

私が、ヨーロッパからパキスタン・ラホールを経てインド・アムリトサルに入ったのが1984年春だった。当時、自治を求めていたシーク教徒とインド政府の間で緊張が走っていた。黄金寺院(ゴールデンテンプル)がある。

シーク教徒の聖地だった。

私は、その時、黄金寺院を訪ねた。外からはわからなかったが、中に入ると、真ん中に人工の池があり、その四方を美しい白亜の建物が囲んでいた。寺院の外の喧騒な世界とは異なる別世界があった。池には蓮の花が咲いていたような記憶があるが定かでない。天国というところがあればこんなところかもしれないと思った。しかし、緊張感は私にもわかった。武器をもったシークの兵士が寺院の周りそこかしこに居たような記憶がある。日本に戻ってから、その数カ月後、政府軍が黄金寺院に突入し、数百名の死者が出る悲惨な事件が起きたのを新聞で目にしたのは。

「パンジャブといえばシーク教徒が多いが。。。」

「私はシーク教徒だ」

「でも帽子(ターバン)をしていないじゃないか」

「はは、ここはアメリカだ。でも、見てくれ」

と言って、右手のシャツをまくって、銀色の腕輪を私に見せた。

「シークはこれをする。この腕輪をしているのはシークさ。」

昨日、サンノゼ空港から乗ったタクシーの運転手はターバンをしていたのですぐシーク教徒とわかった。

「昨日乗ったタクシーの運転手もシーク教徒だった」

「ここのインド人のタクシーの運転手は皆シーク教徒さ。そうだな。。。98%以上だろう。」

シリコンバレーのインド人のタクシー運転手の殆どがシーク教徒である事を初めて知った。やはり、同胞、皆助け合いながら特定の職種に集まるのだろう。

「黄金寺院に行った事があるよ。1984年だ。当時は政府とシーク教徒の間で緊張があったな。」

「そうか、行った事があるのか。あの時、政府軍は罪もない何百人ものシーク教徒を殺した。。。。。僕の知り合いも居た。怖くなって、(アメリカ)逃げてきたの。全て政治の問題だよ。」

当時彼は、まだ20歳直前の血気盛んな頃だっただろう。彼がアメリカまで逃げようと思うまで何かあったのか。細かいところまで伺い知れないが、政治的な衝突は常に一介の市井の人々の生活まで狂わしていく。

「でもインドは変わった。知っているか、今の首相はシーク教徒だ(マンモハン・シン首相を指す)。信じられない。ソニア・ガンジーがイタリア人だからだ。彼女は人を差別しない。」

ソニア・ガンジーは元首相だったラジブ・ガンジーの妻である(元はイタリア人)。主人が暗殺された後、政界の指導者になっている。(因みにラジブ・ガンジーの母インディラ・ガンジーはシーク教徒に暗殺された)

「インドもだんだん豊かになってきているね。」

「そうだ。インドも良い方向に向かっている。」

「インドには最近行った事があるのか?」

「最近は毎年1回は行っている。親戚もいるし。」

「グリーンカードは取ったのか?」

「取ったよ」

グリーンカードは米国永住権である。移民は皆これを望んでいる

暫く沈黙があった。彼は、見知らぬ日本人からいろいろ聞かれたのを契機に、自分がここに来た頃から今までを思い出していたのかもしれない。

遠くにサンフランシスコ空港が見えてきた。

彼はポケットから名刺を取り出して、

「次、立ち寄ったときも使ってくれよ」

「次の水曜日、また戻ってくるが。。。でも、既に知人が待ってくれている」

「いいよ。その次の機会で。」

「どこのターミナルだ?アメリカンエアーか?」

「そうだ。ターミナル3だ。」

タクシーは静かにターミナル3の駐車場に滑り込んだ。

「ありがとう」

「ありがとう」

「Good Day」

我々は分かれた。タクシーの前で軽く手を上げた彼を見ながらターミナルの中に入った。

私はニューヨークに向かう。

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Adirondock Mountains

 NYに住むP君から、今年もまた1週間の休暇をとって lower Saranac Lake、Adirondock Mountains に家族でキャンプに行くとの連絡があった。 Adirondack 何処? 1932年と1980年、2度の冬季オリンピック会場になったLake Placid の近くらしい。地図で調べると、NYから北へ約300-400km、アパラチア山脈域の中にあった。

 http://visitadirondacks.com/ 、 Saranac Lake, NY を訪ねた。豊かな大自然、山と川、思わず暫く眺めていた。のんびりとしたいなぁ。

 さて、今から仕事、出張だ。

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エチオピア出身のタクシ運転手(Austin,Tx)

Austin1_1  成田を発っておよそ14時間、ダラス空港を経て、テキサス州オースティン空港に到着した。オースティンへの機中、たまたま隣の席に坐った日本人Hさんに(本社がオースティンにあり仕事でしばしば来るとの事)聞いて初めて知ったがオースティンは、テキサス州の州都との事。ダラスやヒューストンの方が遥かに大都市で有名だが、そこは州都ではなかった。ついでに美味い食べ物、あるいは有名と言った方がよいかもしれない、何かと聞いたが、やはりBBQらしい。ただ、それ以外にTaxMexというテキサス風味メキシコ料理があるらしい。機会があれば食べてみようと思った。

 真昼のタクシー乗り場に人待ちの列はなかった。乗り込んだタクシは黒人の運転手だった。今までアメリカで約10回タクシーに乗ったが黒人の運転手は初めてだった。今まではすべてアジア系か中米だった。「景気はどう?」「いいよ」「ハイテク産業が集まっている」「あんたもIT企業か?」等等いろいろ雑談した後、「どこから来たの?」と聞くと「エチオピア」。「アベベを知っている」というと、彼は英雄だと少し嬉しそうだった。話を聞くと、9年前にエチオピアに家族を置いて、兄弟が住むアメリカに来て働いているそうだ。「エチオピアは紛争が多くて。。」「日本でもソマリアとの紛争、テレビで見た事がある」「ああ、あれは隣国の戦争だ」「アフリカは独裁者が多い」「エチオピアも綺麗なところあるよ」、「家族とは9年間会っていないの?」「いや時々エチオピアに帰っている」「家族を呼ばないの?」「今申請しているところ、あと2年位かかるだろうか。。。」 

 オースティンの話になった。「オースティンは景気がいい」「IT企業が次々集まってくる」「ブッシュ大統領は、テキサスでは人気だけどもオースティンでは人気ないね」「オースティンのタクシドライバは、学士や時々博士がいるよ」「僕は学校に行っていないけどね」
 そうこう話しているうちにタクシはホテルに着いた。「Have a good day」

PS:後でエチオピアやソマリア紛争の歴史を改めて調べたが、ソマリアでの内戦は1970年代から40年近く繰り返されている事がわかる。今もまさに現在進行形で、この3月には数日の戦闘で1000人以上が亡くなる悲惨な状態が続いている。

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OysterBarでの語らい(NewYork)

0704ny1  卒業以来22年ぶりにO君とNYで会った。会ったその瞬間から学生時代のその時に戻る。お互い歳はとったが、気持ちは何も変わっていない。Y君は、今、情報産業の世界最大にして最先端のアメリカで企業相手に情報システム構築の支援をしている。既に、NYに駐在して5年以上、某社の副責任者として活躍している。

Oysterbar_1  そのO君に、昼食時、近くのグランドセントラル駅構内にある「OysterBar」に連れていってもらった。少し薄暗い構内の一角にそのレストランはあった。アーチ型の連なる天井とその下で忙しそうに食事したり密談する会社員達、年老いた夫婦の旅行者、家族連れ、カップル、様々の人達の間をウエイターが足早に立ち働く。奥の壁際の席を2人でとった。忙しいのかウェイターはなかなかやってこなかった。やっと来て頼んだのは、その名前どおり、Oysterが有名(実は、恥ずかしながら、私はこのレストランが1913年のグランドセントラル駅開設とともに開業した90年以上の歴史ある有名なレストランということを知らなかった)で、彼の薦めに従って注文した。またクラムチャウダーも(事前にもっと勉強しておけば良かった!)。

0704ny2_2  喧騒の中、しかし静かな2人の間、Y君から、北米市場が日本の市場の4倍もある事、日本の大手でも、北米では小さなプレーヤーに過ぎない事、情報システム構築は業界の歴史や事情にも精通していないと生き残れない事など話を聞いた。現場の話は、現場で聞くのが最も良い。あっという間に時間が経った。1時間半も居ただろうか、お互い次のミーティングの時間が迫っていた。少しモダンで、しかし騒然、雑然として、ちょっと銀座と新橋の間の高架下の食堂の雰囲気を感じるNYらしいその場所を後にした。

 グランドセントラル駅の出口を出ると、昼間の眩しいNYの街だった。右と左に分かれた。

 

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アメリカの巨大空港 (Boston)

アメリカの巨大空港は、字の如く、港(みなと)だと思う。大はボーイングのジャンボから小はセスナまで、大小様々の飛行機が滑走路やゲートに停泊し、動いている。真黄色に彩られたけばけばしい色の輸送会社の機体、何十という航空会社の様々にデザインされた飛行機群。複数の滑走路を持ち、右から左から、前から後ろから次々と降りては飛び立つ飛行機群。いくつもあるターミナル。シカゴ・オヘア国際空港(ORD)は4つのターミナルを持ち、シャトル電車が結ぶ。ボストン・ローガン国際空港(BOS)も4つのターミナル。忙しそうに立ち働くセキュリティ関係者。波止場の周りで巨大な喧騒が取り巻く「海の港(みなと)」と同じような雰囲気を感じる。それに比べると、いつも使う関西空港はちょっと澄ました顔するおとなしい田舎空港。香港やシンガポール空港も巨大だが、施設が新しいせいか、働く人々や乗降客の顔にアメリカほどの多様さがないせいか、システマティック、機能的な感じが先にあり、喧騒さという雰囲気は余り感じない。アメリカの巨大空港も、段々慣れてくると、人間臭い、眺めているだけで飽きない面白さがある。

これから行くのは、ラガーディア空港(LGA)、ニューアーク・リバティ国際空港(EWR)、ニューハンプシャー・マンチェスター空港、ノーマンY・ミネタ・サンノゼ国際空港(SJC)、サンフランシスコ国際空港(SFO)、どんな空港だろうか。ボストン・ローガン国際空港からニューヨーク・ラガーディア空港(LGA)に向かう、ビジネス客で混み合うシャトル便MD-88型機の中でそんな事を想う。

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1975年 ベトナムから(Boston、NewYork)

ボストンで一番美味い中華料理屋と言うところに、香港系アメリカ人の事業家Jさんにつれてきてもらった。店の名前は、福臨門。確かに美味い、舌鼓する。回りを見回すと、白人や中国人、そして我々日本人。何でもこの辺りは高級住宅街で、あのDice-K(松坂大輔)も住んでいるらしい。さて、食事も堪能しながらも、配膳する少し年配の50代くらいだろうか、気品と優雅さを感じる女性が気になった。若い頃はさぞかし綺麗だったと思った。

帰り際に思い切って尋ねた「どこから来たのですか」。彼女は、唐突なこちらの質問に戸惑う風もなく「1975年、もう大分前ね、ベトナムから」と、皿を片付けながら応えた。

1975年、ベトナム戦争でサイゴンが陥落した年。北ベトナム軍がサイゴンに攻め入り、逃げようとする群衆が、アメリカ大使館に集まり、そこからヘリコプターで脱出する人々の写真や、恐らく何度も映画で見たのだろうその場面を思い出した。そうした場面に居たのか、あるいは違うルートで出国したのか、それとも全く違うのか、もっと話しを聞きたいとも思ったが、彼女の背中に、アメリカに来てから過ごした32年の歳月を感じ、黙っていた。

翌朝、ニューヨークに入った。ニューアーク空港からマンハッタンまでタクシーに乗る。タクシーの運転手は初老に入りかけていた。中国人かと思った。仕事は忙しい?どこに住んでいるの?等と話しかけながら、どこから来たのか尋ねた。「1975年、ベトナムから」。また、1975年に出会った。「ベトナムには帰った事ある?」「最近帰ったね」「NYでの稼ぎは月3000ドル、ベトナムは80ドルあれば1カ月十分暮らせる」「一人暮らしだから、定年になったらベトナムに帰るよ」「向こうには妹もいるし」「尤もこちらも月2000ドル以上費用がかかるから残るのは少ないよ」「ニュージャージーは、マンション代もNYより安いから棲んでいる」「兄貴がカリフォルニアに、95年に来たな」「NYと違って、手に職がないと、CAは仕事を見つけるのが大変だよ」その男は語り続ける。そうこうするうちに、タクシーは、マンハッタン中心部にあるホテルについた。「Have a nice day」、お互いに言った。

1975年は走り去っていった。

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多様さとルール(Chicago、Raleigh)

アメリカに着いていつも思うのは、実に多くの違う顔がいるという事。アングロサクソン系、ドイツ系、スペイン系、アフリカ系、インド系、中東系、台湾系、中国系、日系、韓国系、東欧系、ロシア系。。。顔の作りが少しずつ違うし、混ざった顔もいる。聞こえてくる言葉も英語だけでない。訪ねる欧州、アジアの都市でも、ここまで多様な顔を見ることはない。モザイクという言葉が実に似合う。

ホテルのレセプションで同行していたYさんの部屋番号を尋ねた時、レセプションの黒人の女性は、オペレータにつないでもらえと言う。後ろの構内電話からオペレータに電話をすると、なんと、すぐ後ろから声がする。オペレータに聞けと言った当人が出ていた。個人情報保護の為、他人の部屋番号を教えないことは理解したが、流石に一緒にYさんとチェックインした事を彼女は知っているので教えてくれるだろうと、電話を置いて、改めて振り向いて教えてくれと頼んだ。駄目だと言う、オペレータに電話しろ、とまた言う。オペレータは君じゃないかと言おうと思ったが、これは駄目だと思って、改めて向こうを向いて電話をし直す。何となく変な気分だが、しょうがない。これが、ルールなのだろう。

普通だと、そのあたりは慮って、部屋番号を教えてくれるか、少なくとも電話を自分でとって繋いでくれるのだろうが、人によっては、そこまで気が回らないか、ルールと言う事で杓子定規のように他の事ができない人もいるのも事実である。私は、その配慮がない事より、むしろ、事を決めるルールがきちんとできており、それが一般従業員にまで徹底教育されている事に驚いた。知り合いとわかっている場合は、教えるというルールまではないようだが、それは「裁量」が入り込む余地があるから、あえてルールにしなかったのだろう。

 余りに多様だからこそ、「常識」や「配慮」に頼らず、「ルール」を整備して、人々の間で紡がれる仕事が一応機能するようにする。多種多様な人が集う社会では、当たり前だがルールは尤も基本的な神経細胞のようなものだと感じた。

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ラジオが鳴り出す音で目が覚めた(Raleigh)

ラジオが突然鳴り出す音で目が覚めた。その部屋の前の宿泊客がセットした時間なのだろう。リセットされず設定が残っていたようだ。時計を見ると、まだ午前5時半過ぎ。覚めやらない頭で日本時間を計算した。午後6時半か。もう少し寝ようかと思ってうつらうつらしていると、小鳥の声が聞こえはじめた。薄い白いカーテンが掛かっている窓の向こうが既に白み始めているのがわかる。スウェ、スウェ、スウェ、スウェ、スウェと日本では聞いたことのない声。数えるといつも五回。ピョ、ピョ、ピョ、ピョ、ピョと相方だろうか、違った鳴き声で応える。背景には、近くの高速道路を走るクルマの低い唸り声が聞こえてくる。スウェ、スウェ、音楽で言うと何の音だろう、ラの音か、ファの音かなどと思いながら次第に目覚めていくのを感じる。小鳥のさえずりが心地よいのは、その音の柔らかさもあるが、その回数が丁度、ヒトのリズムに合っているせいだと思った。

 ここは、ノースキャロライナ州ダーラム・ラーレイ空港近くのマリオットホテル。

 日頃とは違う広いベッドから身体を起こす。まどろみから思い切って抜け出すように。窓の方に近づく。目の前の駐車場にはクルマは一台もない。その向こうに林が広がり、林の向こうのかすむ雲の後ろで太陽が昇り始めているのが透けて見えていた。そして、ずっと林が拡がっている。

 小鳥の鳴き声が響いていた心地よい朝も、次第に多忙な月曜日の朝に刻々と変わりつつある。遠くの高速道路から響く車の音も次第に大きくなり、小鳥もいつの間にか鳴きやんだ。シャワーを浴びて、歯を磨く。鏡をよく見ながら髭をそる。ローゼットからアイロン台を取り出し、丁寧にアイロンをかける。日頃しないような事を出張先ではするものだ。パソコンの電源をオンにし、メイルのチェックに取り掛かる。今日が始まる。

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駆け足のNY (NY,USA)

 走り続けた1週間、睡眠時間は1日数時間。見た景色はホテルの部屋と会議場と道すがらの景色のみ。帰国を前にやっと着いたNY・ラガーディア空港近くのホテル。時間は既に午後9時前だった。疲れ果てた身体だったが、一緒にいたIさんと、気分転換に、ほんの少しだけでもNYの街の空気に触れようとタクシーを駆って街に出た。

2006_1117_214146aa Rockefeller Centerにまず向った。街は翌週からの感謝祭(Thaksgiving)を前に、華やいでいるようにも見えた。有名なクリスマスツリ-が準備されつつあった。たなびく万 国旗の前のス ケートリンク、映画でもよく出てくるが、では若者たちが楽しそうに滑っていた。観光客がリンクの周りで写真を撮っている。リンクのすぐ横でポスターを売っている青年。思わず2枚、NYの絵を購入してしまった。$20-。そこから数ブロック先のTimes Squareまで歩く。翌日が土曜日のせいか、まだまだ人も観光客も多い。Iさんがふと漏らす「新宿歌舞伎町と同じだな」。Broadwayと7thAve.が交わるところ、そこがTimes Square。あのビルの壁面いっぱいに並 2006_1117_220353aa_1ぶフルカラーのLEDディスプレイが派手に広告を流し続ける。様々の人種が雑踏の中を行き来する。日本と同じように道路にたむろする若者達。なぜかスパイダーマンもいた。当然に警察官も居る。

 自転車を改造したサイクルタクシ-を呼び止め、少し離れた The Waldorf-Astoriaに向かった。運転する(といっても自転車に2人乗りの客席をつけただけのものだが)若者に聞く。メキシコのPuebraから来て、Columbia UniversityでPolitics&Econimicsを勉強していると。将来の夢は、International Tradingと。学費を稼ぐためにこのバイトをしている。サイクルタクシはNYの大通りのど真ん中を縫って、やがて目的地に着いた。

2006_1117_223843aa  The Woldorf-Astoriaは歴史あるNYの高級ホテル。NYを訪れる米国大統領の常宿。日本との歴史では、1905年8月25日、当時のセオドア・ルーズベルト米国大統領が仲介した日露戦争でのポーツマス講和条約に向う小村寿太郎外務大臣が泊まっている。アールデコ調の装飾と豪華なロビー。Bar Bull & Bearに立ち寄り、カウンターで一杯、少し疲れを癒す。

 知り合いのアメリカ人P君が今粋な店として紹介してくれたのが、Waverly Placeにあるイタリアンレストラン"BaBBo"。Washington Square Parkの近くにあったわけだが、何しろ殆ど初めてのNY、近くでタクシーを降りて、およそ30分、何人もの人に尋ねながらたどりついた時は、閉店間際の23:30。残念ながらそこで食べるのは諦め、通 り向かいにあったごく庶民的な店に入った。暖かいスープを飲んで身体を温める。ウエイター2006_1118_000900aaの青年の顔立ちがラテン系に思えたので、どこから来たのと聞いたら、彼もメキシコのPuebraからだった。

 さて夜も12時過ぎ、歩き疲れて疲労もピークになり帰ろうか、という事になったが、ここまで来たら「自由の女神」を見たい、という事になった。店を出てタクシーを拾おうとするのだが、これがまた来ない。11月中旬の深夜、寒さが流石に応えた。ようやく拾ったタクシ-に乗り、自由の女神が見えるManhattan島南端のBatteryParkへと頼む。途中、ふとタクシーの窓から横を眺めると、広々とした空き地があった。Ground Zeroだった。2001年9月11日、テロリストの乗っ取られた2機のジェット機が、ワールドトレードセンターに突入、センターは崩壊し、数千人もの罪の無い人々が亡く2006_1118_001557aa_1 なった。今この華やかな街の中にその場所は残る。平和は守るものではなく、造るものであることを強く感じる。悲しみの中から生まれる思いやりと願いが平和の礎であるように思う。

 BatteryParkの前で降りた私たちはぶらぶらと中に入ろうとしたら、女性警備員から呼び止められた。"Very Dengerous"、入るなと。それで隣接するフェリー乗り場に。既に時間は午前1時過ぎ、観光客は居ない。向かいのBrooklynに帰るだろう会社員や若者が物憂げな表情をしながらフェリーを待っていた。警察官が節々で巡回警備している。乗り場と仕切られたガラスの向こうに、かすかに灯が見えた。それが自由の女神、The Stature of Liverty が掲げる松明の灯だった。何千万人という人たちがこの灯に自由を見出し、アメリカに渡って来た。

 向こう岸に幽かに揺らめくThe Stature of Livertyの持つ松明の灯を見て、NYの今晩と走り続けた1週間と出会った人を思い起こしていた。深まる夜、Brooklyn Bridgeを横目で見ながら、タクシーの座席に深く座り込んで帰路に着いた。時計は既に午前1:30を指していた。

 

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ニューヨーク発成田経由ソウル行き

 ユナイテッドエアー、ニューヨーク発成田経由ソウル行き。

 空港内で子供へちょっとみやげを買って、機内に入る。席を見つけて座ろうとした隣は、若い白人のアメリカ人、何やら本を読んでいた。”失礼(Excuse Me)"と言って窓側の席に座る。真昼の明るい太陽が銀翼に跳ね返って眩しい。

 安全のビデオ等をやっているうちに機体は動き出し、滑走路に向かう。微かな振動が、離陸の前のちょっとした緊張感を機内に漂わす。滑走路を正面に見据えると、うなり声を上げて機体は加速し始めた。背中が席にきゅっと押し付けられる。窓の外の景色が飛ぶように走り出す。

 突然、振動がなくなる。エンジンのうなり声が響く。景色が後方へ、そして下へと離れて行く。ジェットは無事離陸し、ぐんぐんと高度を上げていく。暫くすると水平飛行に移り、ほっとした雰囲気が何となく広がる。スチュワーデスは席を立ち、各々自分の仕事を始める。

 隣の若者の読んでいる本をそれとなく覗くと、ハングルの教科書だった。
 韓国に留学するのか?
 声をかけてみた。
 若者はちょっとはにかんだような顔を見せて、
 違う、彼女に会いに行くんだ、と言った。
 ちょっと不思議そうな顔をすると、彼は、
 彼女は韓国人なんだ、と言う。
 なるほど。なんとなく笑顔の韓国美人を想像した。
 学生かい?
 いや、ポスドク(=ポストドクター)
 どこの?
 ボストン。
 何となく聡明そうだったので
 ハーバードか?と聞くと
 違う、MIT
 彼女は?
 プリンストン大学

 さらに話を聞くと、大学の休みを利用して、彼の韓国人の彼女は、プサンに帰っていて、今回、初めて彼女の家へ遊びにいくらしい。それで、ハングルを一生懸命勉強していたわけだ。仁川空港からソウル駅まで行き、そこから特急でプサンに向かうらしい。彼女は駅まで迎えに来てくれるそうだが、どうやらそれはプサン。 初めての韓国への旅、ちょっとした不安と、冒険心と、彼女に会える喜びとが、微妙にミックスした、何かちょっと生き生きとした生気が彼から溢れていた。

 もう結婚でも決まっているかと思って、つい気軽に、結婚するのか、と尋ねてしまった。見知らぬ外国人から、いきなりストレートに聞かれたせいか、一瞬口ごもり、聞き取れない英語で、おそらく日本語に訳すと「たぶんかな」という感じで答えた。純真な様子で、ちょっと悪かったかなと思いながら、話題を変えた。  

 ポスドクにいる彼は、まだ27歳、材料工学を専攻し、まもなく、コロラドの大学に移り、そこで教鞭をとるらしい。これからの生活を語る彼の明るさが、私には少し眩しかった。韓国の彼女も一緒にコロラドに行くのだろうか。  

 窓の外を見やると雲ばかり。機体は、カナダ上空から日本に向かっていた。

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NY市内からJFKへ

 仕事に追われて、初めてのNYも、殆ど街を見ることなく離れる事になった。ホテルからJFK空港へ。荷物を積んで、リムジンに乗る。ほんの15分程度は街を廻れるだろう、自慢の場所経由で空港へ、と頼む。

 彼は、ここは、Avenue of the America と言いながら廻る。アメリカ国旗がはためく前を通った、その後ろにあるビルがロックフェラーセンターと言う。冬にはそのビルの前でアイススケートができるらしい。NBCビル。ビルの中には光輝くボールのようなものが見えた。車の窓から写真を撮ろうとすると、彼は、ビルの前に居た若い観光客に"Smile!"。向うも驚くが、こっちも驚く。ここがTimesSquareだ、ESPNだ、知っているか?、スポーツバーだ、と言いながら走っていく。エンパイヤステートビルも遠くにちらっと見えた。そろそろ時間、車は空港へ向かい始めた。

 どこから来たんだ?
 バングラディッシュだ。
 いつ?
 22年前。
 いい車だな。
 リンカーン320馬力だ。
 ずっと、タクシーの運転手をしているのか?
 前は、トレーラの運転手だった。
 大陸横断していたのか?
 そうだ。アラスカからフロリダへはよく走った。
 アラスカからフロリダか?どの位かかるんだ。
 約3カ月だな。
 3カ月!
 そうだ3カ月。でもあっちこっち寄ったりして行く。
 雇われていたのか?
 違う、オーナドライバーだ。
 稼ぎは?
 年30万ドルだった。
 30万ドル!
 4年やったよ。でも生活はなかった。仕事だけ。
 。。。
 100万ドル稼いだな。それからリモの運転手になった。
 。。。
 今は時間はある。稼ぎは落ちたが、好きな時に働ける。
 そうか。家族は?
 妻と22カ月の子供が居る。
 いいな。奥さんもバングラディッシュからか?
 違う。マナグアだ。
 マナグア、それはどこだ。
 南米だ。
 マナグア。行った事はない。
 そうか。
 このリモは、空港行くのにタクシより高いのか?
 $5高い。それにチップが20%のる。でもこれはイエローキャブも同じだ。
 そうか。
 この車買うのに、イエローキャブの倍は掛かるので当然だ。保険も年9千ドル掛かる。
 9千ドル!
 そうだ。
 先に乗った日本人は、チップはなかった。
 日本人にはチップの習慣がないからな。
 別にチップは要求しない。気分がよければ払ってくれればいい。
 そうか。

 と、話しているうちに、いつの間にか空港に着いた。
 Have a good day ! 私達は分かれた。チップも忘れずに。

 

 

 

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バンクーバーから

1、パキスタン・サマーワから

 ポートランドで乗ったタクシーの運転手は、パキスタンから13年前にポートランドに来たと言う。どこから?と聞くと、あんたの知らない南の田舎町だよ、と。重ねて聞くと、サマーワと言う。日本では大変有名な町だ、と話すと、そうだ日本の自衛隊が来ていたね、平和な街だよ、と嬉しそうに話した。両親は今でもサマーワに居て、今年も年初に会いに戻ったと言う。家族はポートランドに移り住んでいる。とても綺麗な処で気に入っているよ、と。

2、中国・西安から

 バンクーバーからフランクフルトの機中で隣の席に座っていたのは、中国系の若い高校生位に見えた3名の女の子。i-podのような機械で音楽を聞いていた(後で、それは中国で買ったUSBメモリのプレーヤーと分かった)。隣の席の少し肥えた娘に聞いた。

 「どこから来たの?」
 「シーアン」
 「?」
 「中国の西安」
予想もしない名前だった。せいぜい、どこか北京か上海の大都市からかと思っていた。
 「どこに住んでいる?」
 「スイス」
 「??」
 「留学している」
 「!!!」
 「バンクーバーには何しに?」
 「友達に会いに」
恐らく、西安の金持ちの娘で留学させているのだろうと、勝手に想像したが、中国も田舎*まで随分国際化したものと思った。

(追補:*日本では歴史の街というイメージだが、人口は700万人、近隣人口合わせると1500万人以上。近年の日本との関係は薄いが、約40の大学、500の研究機関があるそうで、携わる技術者数38万人で北京、上海についで中国第3位。ドイツ、台湾の企業が多く進出しているようだ。やはり中国は広い。)

3、ロシアのサンクト・ペテルブルグから

 フランクフルトからバンクーバーへの機中。食事時、隣の席の男に聞いた。どこから来たの。
 「ロシアのサンクト・ペテルブルグからだ」
 昔よく見た007の映画でよく出てきた都市の名前だ!確か、当時のソビエトでバルト海から北海経由で大西洋に出れる唯一の不凍港だった記憶があるが、定かでない。
 話を聴くと、彼は元通信技術者で、1991年、それはソ連が解体した年、当時のソビエト/ロシアを離れ、韓国のサムスンで技術者として一時働いていたという。その後、アメリカを経由し、カナダ・バンクーバーに移り住み、現在は、ソフト関連企業で働き、今回、その外注調整の為に、彼の出身地であるサンクト・ペテルブルグ、それと近隣のリガまで仕事に行っていたという。その辺りは優秀な技術者が多く、製品の品質も高いという。もっとも、製品は無形なのでインターネットを通じて送られるだろうが。あと何年かカナダで働くと、国籍が取れるそうだ。日本と異なり、ロシアでは2つのパスポートを持てるそうで、その時彼は、ロシアとカナダの2つのパスポートを持つ事になるのだそうだ。 食事の話では、ロシアでは、魚料理はない事はないそうだが、余り食べないとの事。ただ、彼(私より4歳若かった)は、奥さんが魚料理が得意で週1回は食べているとか。日本人がスマート?なのは魚料理を食べているからだとの意見だが、私も同意見。肉ばかり食べている欧米人は年をとるとぶくぶく太りだす(失礼)。彼は、バンクーバーは美しい街だと話し、これからも生活の拠点にしたいと言っていた。

3、パキスタンのラホールから

 バンクーバーで乗ったタクシーの運転手もアジア人だった。「商売はどう?」と聞くと「悪くない」と。彼は、ラホールの近くの街から1990年代半ば、家族とともに移り来たと。20年以上前にラホールに行った事があるよと話すと少し驚いていた。ラホールは、パキスタン・インド国境の町。彼はモスリム(回教徒)で、酒も、博打もしない、と。「アメリカの移住者は大変だ、すぐテロリストと思われる」などと話していた。イスラム教の事を知りたいならば、 http://al-islam.org を見ろ、と親切な(?)アドバイスをしてくれた。バンクーバーには家族と移り住み、綺麗な町だと気に入っていた。彼が言うに、バンクーバーは、Hongcouverとも呼ばれるほど香港人の多い街だと。確かに、空港でも広東語が飛び交っていたし、空港職員の1/3は中国系に思えた。私の知っている知合いも香港返還の時に、カナダパスポートを取っていた。当時、香港の多くの金持ち達が、カナダパスポートを取り、資金をカナダに動かし、バンクーバーの町も潤った事が知られている。

4、インドのパンジャブから

 バンクーバーの空港に向かうタクシの運転手もアジア人だった。聞くと、今度はインドのパンジャブからだった。パンジャブはインド北西部の地域。彼も90年代半ば、家族とバンクーバーに移り住んできたと。

 偶然か、それともこれが普通か。カナダ・バンクーバーを基点にした移動の途中で出会った人は、いずれもアジア系、ロシア系だった。日本に比較すると(最近の東京はそうだが)、今の世界の大都市では、多彩な人種が、混じわって暮らしている。

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