日経新聞朝刊で堺屋太一の「世界を創った男チンギスハン」が連載されている。より味わって読む為、この時代以降の中国の歴史について集英社の「中国の歴史」でざっと読んだ。メモしてまとめておく。
12世紀後半 チンギス・ハン、モンゴル草原の支配者へ
中国北方の広大な大草原で後の英雄チンギス・ハンになるテムジンが生まれたのは1155年、1162年、1167年などの説がある。父は、モンゴル族の中のボルジキン族の族長のイエスゲイ、母はオンギラト族出身と言われるホエルン。しかし、テムジンが幼少の頃、父イエスゲインは亡くなった。一説には、ライバルのタタール族に毒を盛られて死んだとも言われている。テムジン一家は、タイチウト族など他の部族に襲われたりしながらも何とか生き、乗り越えていった。後にジャダラン族の族長になるジャムカと義兄弟(アンダ)となったのもこの頃である。テムジンは母と同じオンギラト族出身のボルテと結婚する。
この頃、北方遊牧民族の中で力を持っていたのはタタール族とケレイト族。父イエスゲイと義兄弟の契りを結んでいたケレイト族のトオリル・ハンと、テムジンは親交を結んだ。ある日、メルキト族の襲撃で、テムジンの妻ボルテがさらわれた。テムジンは、トオリル・ハンとジャムカの応援を得て、メルキト族を打ち倒し、妻ボルテを取り返した。テムジンの勢力はこれを機に更に拡大した。テムジンはジャムカと、この頃、ともに遊牧生活を送っていたが、やがて分かれた。
テムジンの勢力は更に伸張し、やがてジャムカの軍と衝突する。これを十三翼の戦いという。この時、ジャムカ軍には負けたものの、勢力は着実に拡大していき、他の部族を脅かす勢力となっていく。敵のタイチウト族やタタール族は連合し、長(ハン)にジャムカがなり、グル・ハンと名乗る。テムジンはトオリル・ハンと組んで、タイチウト族、更に金と挟み撃ちでタタール族を滅ぼしていく。
13世紀前半 チンギス・ハン、オゴタイ・ハンの時代
モンゴル草原の平定と帝国の誕生(1206)
テムジン勢力の巨大化を警戒したトオリル・ハンはジャムカと手を結ぶが、1203年、テムジンはトオリル・ハン軍を打ち破り、ケレイト族を滅ぼず。更に、ナイマン族、メルキト族も打ち破りモンゴル草原を平定した。1206年、草原のすべての部族の代表が、オノン川に集まり、部族長会議クリルタイが開かれ、テムジンは、モンゴル全部族の長、チンギス・ハンとなり、ここにモンゴル帝国が誕生した。
西夏、金、を陥れる
モンゴル平原を平定したチンギス・ハンは、西方の国との国交・交易による富を狙って侵攻した。1209年、西夏の黒水城(カラホト)を攻め落とし、首都の興慶を攻めた。西夏王は、降伏・和睦した。 次に、1211年、万里の長城を越え、東方の金に攻め込んだ。首都の中都(北京)を攻め、1214年、金は降伏、チンギス・ハンは兵をたたみ平原に引き上げた。1215年、再び金に侵入、中都を陥れるとともに、黄河以北の地を占領した。この頃、金の家臣だった、耶律楚材(ウルト・サガル)を採用、後、彼はチンギス・ハンの信頼を得て、モンゴル帝国の経営に力を発揮、その発展の礎を築いた。
モンゴル西方大遠征の始まりとチンギス・ハンの死(1227年)
1218年、モンゴルの使者と隊商がイスラム教徒の国ホラズム(今のイラン)を向かったところ、ホラズムの役人に捕らえられ、全滅した。怒ったチンギス・ハンは20万の大軍を率いてホラズムに向かって出撃した。商都サマルカンドを落し、国王ムハマンドは逃げ出し、王子ジェラール・ウッディーンもインダス川に追い詰められ、川に飛び込んだと言われる。支隊のジェベ・スブタイ軍はイラン高原の都市を次々と落した後、南ロシアにも攻め込み征服した。1224年、この遠征は終わる。そして、1227年8月、西夏攻撃中、チンギス・ハンは波乱の生涯を終え、モンゴルのブルカン山に運ばれ埋葬されたという。現在もその場所は知られていない。
金の滅亡(1234年)
チンギス・ハンの死後2年後、オゴタイが第2代ハン(ハン1229-1241)に選ばれた。オゴタイは金を攻め、首都汴京を包囲、1235年、首都を逃げ出した金の皇帝は自殺し、ここに金は滅亡した。翌年、モンゴル高原に首都カラコルムを建設した。
バトゥの西方遠征(1236-1241年)
オゴタイは、ヨーロッパ遠征をバトゥに命じた。この遠征はヨーロッパ人を震い上がらせた。バトゥは、まずロシアに入り、モスクワ、ウラジミール、キエフを次々と落した。更に東欧に侵入、ハンガリー、ポーランド、ドイツの諸都市を征服した。1241年、モンゴル軍はドイツとポーランドの連合軍を破っている(ワールシュタットの戦い)。しかし、同年末オゴタイが亡くなった為、バトゥは全軍を引き上げた。
13世紀後半 元王朝の成立と中国全土の支配
アッバース朝を滅ぼす(1256年)
第4代ハンについたモンケ・ハンは、弟フビライに中国西方のチベット・雲南を、弟フラグにイスラム勢力討伐を命じた。フラグは、1256年に暗殺教団の拠点アラーム砦を、1258年にバクダッドを攻め落としアッバース朝を滅亡させた。そして、満を持したモンケは、フビライと共に全中国の支配を目指して南宋攻めを始めた。
フビライによる元朝の成立と南宋の滅亡(1279年)
南宋攻めの最中にモンケ・ハンは亡くなり、後を継いだ第5代ハン、フビライ(ハン1264-1294)は都を金の首都だった中都に移し大都大興府とよび、モンゴル帝国の首都とし、1271年、国名を元と改めた。1276年、元軍は南宋の首都臨安を占領、皇帝達は南に落ちのび、ここに元の中国支配が成立した。1279年、厓山で南宋軍は破れ、幼い皇帝は陸秀夫に抱えられ海に飛び込み、ここに南宋は滅亡した。
モンゴルとキリスト教の交流とマルコ・ポーロの来元
モンゴル軍に荒されたキリスト教ヨーロッパでは、ローマ教皇が元に使節を送り、交流を深める事を決断した。1246年にローマ教皇使節プラノ・カルピニがモンゴルを訪ねている。1274年、当時20歳のマルコ・ポーロを含む3人のベネチア商人がフビライと謁見した。フビライに気に入られたマルコは、以後元で過ごした17年間、庇護の下、中国中を旅した。これが、後の彼の「東方見聞録」となり、東アジアの情勢が欧州に詳しく紹介された。
フビライの日本遠征と南洋遠征
南宋、朝鮮半島の高麗を支配下に治めた元は、1274年、日本に侵攻した(文永の役)が台風の為に多数の兵を失い逃げ帰った。そして、1281年、再度日本遠征(弘安の役)を行ったが、また嵐の為、多くの兵を失い失敗に終わった。 フビライは、また、安南(北ベトナム)、チャンパ(ベトナム中央部)を降伏させ、ジャワに攻め込んだ。
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