カテゴリー「日本史・世界史」の記事

「逆説の日本史 2古代怨霊編」(井沢元彦)

H5_2  井沢元彦の逆説の日本史「古代怨霊編、聖徳太子の称号の謎」は、これまで学んできた歴史をよりダイナミックに生き生きと甦らせてくれる。天皇権力をめぐる権力争いが壮絶だった時代は、長子継承が明確でなく、主要な豪族・貴族の支持で天皇が決まっていた時代でもある。穴穂部皇子、祟峻天皇、聖徳太子、山背大兄皇子。天智天皇、大友皇子。草壁皇子。長屋王、安積親王。皆、時の敵対勢力から圧力を受けたり、時には無実にも関わらず、殺されたりした節がある。そして、井沢は、当時は、子孫が絶え、祀られなくなった者は怨霊と化し、現世に災いをもたらすと考えた。現世の政治は「怨霊の鎮魂」により世の中の安定・平安を求めたと解釈する。法隆寺、三井寺園城寺、東大寺の建立、皆そうした背景があると考える。

 元親百済、そして唐との同盟推進派の天智天皇が親新羅派の大海人皇子(後の天武天皇)に暗殺されたとの推理・検証は圧巻・衝撃的だった。扶桑略記の記事「一云、駕馬幸山階郷、更無還御、永交山林、不知崩所、只以履沓落処為其山稜、以往諸皇不知因果恆事殺害。。。」、天智天皇が亡くなった時の万葉集の詩「青旗の木幡の上を通ふとは 目には見れどもただに会はぬかも」、日本書紀に天智陵の所在が書かれていない事、天武天皇の出生の謎、桓武天皇の「郊祀」の儀式の意味、京都府宇治市小倉町にあった「天智天皇」とだけ書かれた石碑、天皇家菩提寺だった京都泉涌寺で天武系天皇の位牌がなく、その霊が祀られていない事、森鴎外の天智・天武の謚号の由来分析、筑紫大宰の栗隈王スパイ説、三井寺の由来。。。等等から推理する。只、日本書紀には全くそうした事は書かれていない。その編纂者は、天武天皇の息子舎人親王であり、時の政権に都合の悪い事実は当然に書かれないから、と。

 その見方はかなり説得力があると思うが、一点、知りたいところは、大海人皇子の過去、特に権力の階段を上がる過程の記録である。大化の改新以来の天智天皇と藤原鎌足との盟友関係の中で、どのように大海人皇子が力をつけていったかが分かれば、より真実に接近できるのではと感じた。しかし、そうした記述は見当たらない(どこにもないのかもしれない)。

 以上の話は別にして、6世紀後半から7世紀後半の日本は、大陸の政治情勢に大きな影響を受けていた事がわかる。中国大陸における、隋、唐と続く大帝国の出現、百済の滅亡(661)、白村江の大敗戦(663)、そして高句麗の滅亡(668)は、日本が唐・大陸からの侵攻に怯えるのに十分だっただろう。天智天皇は、白村江の敗戦以後、国防強化策に走る。その当時の費用と人民の労力は甚大だったと想像できる。怨嗟の声も充満していたのではないだろうか。白村江の敗戦とそれ以後の施策は失政と非難する勢力もあったに違いない。近江遷都(667)と即位(668)は、そうした状況からの打開策だったように思える。

 白村江敗戦から8年後、天智天皇は亡くなる。そして、壬申の大乱が起こり、吉野に追放されたと言われる大海人皇子が政権を奪取することになる。大海人皇子に4人もの娘を嫁がせた天智天皇の理由は何だったのだろうか?新しい政権は親新羅政策をとった。

 

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大化の改新前夜(587-645)

1、蘇我氏台頭

 新しい技術を持つ大陸からの帰化人達と深い関係を持った蘇我氏は古代王朝の中で台頭していく。538年、大陸から日本に仏教が伝来し、蘇我氏はその新しい教えを取り入れ保護する。587年、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼし、第一の実力者となる。
 蘇我馬子は欽明天皇の后(堅塩姫、小姉君)、用明天皇の后(石寸名)の兄であり、祟峻天皇の后(河上娘)の父、推古女帝の叔父であり、外戚として権勢を奮った。

2、蝦夷の戦略-舒明天皇(629-641)から古人大兄皇子へ

 蝦夷は、推古女帝の後の天皇選びにおいて、聖徳太子の息子・山背大兄皇子(蝦夷は叔父になる)と敏達天皇の孫である田村皇子(妻が馬子の娘・法提郎媛)が競争した際、田村皇子を推し、舒明天皇とした(629年)。その先には舒明天皇と法提郎媛の間に生まれた古人大兄皇子を将来即位させ天皇とし、堅固な外戚関係を築く事を狙ったと思われる。

3、入鹿、山背大兄皇子一族を滅ぼす(643)

 641年(舒明13年)、舒明天皇が亡くなった。まだ誰も皇太子となっていなかった。蝦夷は、舒明天皇の皇后(宝皇女)の即位を推し皇極女帝とした。この頃、蝦夷の息子入鹿が実質的に権力を蝦夷より継承していた。643年、蝦夷は、古人大兄皇子の即位の邪魔になると考え、山背大兄皇子を攻めるという暴挙に出た。山背大兄皇子は家族ともども斑鳩の地で自害した。日本書紀は記す。蝦夷、息子の暴挙を嘆き「噫、入鹿、極甚く愚癡にして、専ら行、暴悪し。倆が身命、亦、殆からずや」、と。

4、中大兄皇子・中臣鎌子、蘇我打倒を目指す

 舒明天皇は宝皇女(皇極女帝)との間に中大兄皇子がいた。古人大兄皇子の腹違いの弟になる。中臣鎌子は、王権復興を旗にして、中大兄皇子に近づき、入鹿打倒を計画する。そして、645年その時が来る。

5、大陸情勢

 7世紀前半、高句麗は隋の煬帝の兵を退け、国力を消耗した隋は、唐にとって変わられた。韓半島は高句麗・新羅・百済の3国鼎立の状況となっていた。唐は第二代皇帝太宗の時代、貞観の治(627-649年)の頃、国力を高め、再び高句麗を圧迫し、半島情勢は不安定になる。その間、新羅と百済の間では争いが激化する。韓半島の混乱と不安定さは、結果として、大陸から日本への直接的脅威が弱まる事になった。しかし、その後の高句麗の滅亡により、大陸の強い脅威が再び認識されることになる。

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古代氏族社会から平安貴族王朝へ

H4_6112  古代日本、万の神々の国に、仏教が伝来したのは538年。約200年後の752年には大仏開眼供養が行われ、鎮護国家宗教として大きな役割を果たすようになっている。

 仏教は、百済の聖明王が仏像と経典を欽明天皇に進献したのが伝来とされている。万の神の国に、外国から新しい神が現れた。同時に当時最新の技術を持った多数の人々が渡来し帰化した。この背景には、朝鮮半島における高句麗・新羅の百済に対する圧迫もあったと思われる。信仰は権力争いに発展し、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の対立が激化、587年の丁未の変で、物部氏は蘇我氏に破れ滅亡する。蘇我馬子の姉は欽明天皇の皇后になり、娘達は崇峻天皇、舒明天皇の皇后、聖徳太子の妻になり、権勢を誇った。

 聖徳太子は、皇権の強化を目指したようである。冠位十二階や十七条憲法を定め、集権化を目ざした。飛鳥と同様に難波から大和に入るもう一つの街道にある斑鳩に居を移し、政治を行った。また、外交では、隋と関係を深めようと独自性の発揮を図る。しかし、蘇我氏の権勢は続く。

 天皇を軽んずるような蘇我氏に反感を持った勢力が、中大兄皇子・中臣鎌足をリーダーに宮廷クーデターを起こし、蘇我入鹿を倒し、大化の改新(645)を行う。しかし、クーデターにおいて直接手を下した中大兄皇子はすぐには天皇にはならず、662年にようやく天智天皇として即位する。しかし、その頃、大陸情勢は緊迫、日本と関係が深かった百済は滅亡へ。百済から応援を要請されて出兵するものの、663年、日本軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗北を喫する。動揺する外交情勢の中、天智天皇は近江大津宮へ遷都を行ない、権力の建て直しを図る。

 天智天皇とその弟大海人皇子は緊張関係にあったが、中臣鎌足が間を取り持ちながらなんとか関係を繕っていた。しかし、鎌足も亡くなり、天智天皇も亡くなると、吉野に引退していた大海人皇子は、地方豪族の支援を得て、兵を挙げる。672年、壬申の乱にて、大友皇子を破った大海人皇子は、翌年、天武天皇として即位する。地方豪族の支援を得て即位した天武天皇が風俗歌舞・地方芸能が宮廷の祭に取り入れられていったのもこうした時代背景がある。

 天武天皇の後、皇后だった持統天皇が即位する。亡き夫を思い、度々の吉野への行幸を行う中、吉野に近い藤原京(今の橿原市)遷都を行う。遷都は「地方豪族を都に集住させ、都市住民化し任官し、権力の再整理をする」という意味もあったと思われる。この頃になると、王権が安定化し、政治・行政がより組織化していき、組織の長に有力豪族がつく意味が大きくなってきたと思われる。藤原京は初めての条坊制を持つ計画化された都市だった。

 中臣鎌足は藤原姓を賜ったが、その息子、藤原不比等が成長し、権力の階段を上ってくる。藤原不比等は大宝律令の制定、平城京遷都において主導権を発揮する。元々、藤原氏は中臣姓より神祇官で非仏教勢力と見られているが、この頃には、宗教の殻は脱ぎ捨て、王権政治を支える世俗有力者として成長していく。藤原姓は、そういう意味で宗教からの自由・離脱でもあった。

 藤原不比等の4人の息子達は、長屋王の変(729)等で意に逆らう皇親勢力を倒し、力を伸ばすものの、天然痘の流行(737)で全員が倒れ、橘諸兄・吉備真備が、後には道教が政治権力の中心に上る。

 この頃仏教は、鎮護国家の宗教として発展、752年には大仏開眼供養が行われる。鑑真が来朝したのもこの頃である(754)。

 743年の墾田永年私財法は、荘園の発展を促す。政治権力と調整を図りながら荘園経営を旨くしたものは財力基盤を作り、有力豪族として成長する。藤原氏は再び、力を伸ばしていく。

 平安京に移り(794)、800年代半ばより150年間かけて、藤原氏は、太政大臣、摂政、関白の地位、即ち王朝の百官の官職の頂点に立ちながら、王朝とも血縁関係を深め、勢力を伸ばし、そして1000年頃、藤原道長の時代に絶頂期を迎える。しかし、935年に起きた平将門の乱は、その200年後に登場する武家政権の狼煙ともいえる。「古代的英雄と中世的武士の接点に登場した武者」(村井康彦)という表現はなかなかである。

参考:律令制の虚実(村井康彦)

 

 

 

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「律令制の虚実」(村井康彦)

H3_611_3 「逆説の日本史」を読んだのを契機に、古代日本史をもう一度勉強してみようと思った。日本人の心や宗教心の源流を探るなどと言うと大げさだが、多様な文化と接する機会がしばしばある中で、やはりたどり着くのは自分達の文化や心の源流がどこにあるのかに関心が高まる。そして、歴史もあり、史跡も多い関西に住んでおり、その当時の面影を辿る事も比較的容易で、また訪ねる楽しみにもなるだろう。

 今回読んだ「律令制の虚実」を参考にしながらまとめる。今回は、その書き出しで最も印象に残った部分をそのまま引用する。日本が大陸文化・東アジア文化の東の果ての「吹溜り」となり、独特の「発酵」を遂げるという見方は、日本らしさの根源の出発点として感覚が合う。

”日本は極東文化の「吹溜り」といわれる。この日本列島が大陸から分離したのは、人類の記憶にも跡を留めない遠い過去のことであるが、それでも一衣帯水で大陸にそうこの列島には、大陸からたえず人と文物とが渡ってきた。そしてここから先に出ていくところはない、極東文化の終着駅。こうして大陸のさまざまな文物はこの島国というルツボに受容され、そして発酵することになる。
 吹溜りの文化は「多元」の世界である。宗教的にも思想的にも、日本人ほど寛容な民族はいないかもしれない。これは、人的交流はたえずあっても、異民族による征服と支配といった経験なしに民族を形成した島嶼国家の特性で、そうした単一民族とう土壌からは、あれかこれか、オール・オア・ナッシングという二者択一の厳しい論理は育たなかったのである。論理より感性の文化が発達したゆえんである。”

関連: 源満仲

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「逆説の日本史 封印された倭の謎」(井沢元彦)

Wa_no_nazo  倭から大和王権成立までを大胆に推定。大和王権(神功皇后-応神天皇-)が、邪馬台国の流れを汲む九州王権の東遷により成立したと考える。アマテラスは卑弥呼が伝説化した神、また大分宇佐八幡に祀られる比売大神も卑弥呼と考える。

 いつも、この日本を統一した王権の物語は、夢とロマンに溢れる。邪馬台と大和の音の響きは似ていると私も思っていたし、また比売と卑弥も似ているように思える。井沢氏は、論理的に仮説を組み上げ上記の結論にたどり着く。 

 現在、天皇墓(と言われるもの)は宮内庁により調査が認められていないそうだ。エジプト文明がピラミッドの探求により明かされていったと同様に、天皇墓についてもそうなる日が来る事を井沢氏と同様に思う。私達日本人のルーツが解明されていく事は、自分達の理解をより深め、未来を正しく考える契機となるだろう。

参考: 伊居太神社の紅葉

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 古代日本人は集落を「環」と読んでいた。この音が「倭」という字に当てられたと考える。そして、聖徳太子は十七条憲法第一条で「和」の精神を第一に重んじる。西欧の絶対神服従型と異なる「相対的話し合い至上主義」こそ古代そして今でも延々と日本人を規定する特質と考えている。絶対神服従型でない為、戦後でも、霊を信じ、祟りを恐れる。これが、オオクニヌシの祟りを恐れ、出雲大社を成立させたと考えている。同意する部分多い。

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「台湾紀行」司馬遼太郎と"公"

 司馬遼太郎の「台湾紀行」には、台湾前総統の李登輝氏がよく登場する。司馬氏は、戦後、大陸から来た中華民国蒋介石国民党の独裁支配下にあった台湾が、平和裏に台湾化・民主化を成し遂げたのは李登輝という人物の登場という「奇跡」があったからと見ている。李登輝の中に「公」を見ている。

 孫文が、「中国人は"一片ノ散沙"(砂)である」と言っていた。中国人にあるのは家族主義と宗族主義だけで民族主義がないから団結できないとの文脈だった。孫文は揮毫を頼まれるとよく「天下為公」と書いた。

 司馬氏は、儒教は「多分に私」と考えている。「仁」が重要であり、仁が為政者の最高徳目とされ、それが人格として沁み出してくるのが「徳」であると。「孝」も輝かしい「私」である。法家は「多分に公」と考えているが、中国には根付かなかったと。秦の始皇帝は「法」で統治したが、庶民は息苦しかった。次に中国統一した劉邦は咸陽に入城した際、「法は三章のみ」と語り、人々の拍手喝采を得たとある。「私」から出発している権力は、多分に「私」で、しかも仁徳が常に備わっているわけではなく、むしろ民にとり猛獣、搾取者である場合が多かった。戦後、台湾に最初に入った国民党の陳儀も「私」の男であり、しかも略奪と弾圧と汚職の限りを尽くしたとある。1947年の「二・二八事件」は凄惨な民衆弾圧として語り次がれている。

 中国人が血縁・地縁や金を大切にするのも、凄惨な政治が続く中で、拠り所となるものがそれだったからに違いない。

 そして台湾に李登輝氏が現れた。彼が司馬氏に語った言葉が印象深い。「権力を自分に引き寄せるのではなくて-まして自分が権力そのものになるのではなくて、ここ(机の上)に置いて、いわば権力を客観化して・・・つまり実際主義でもって、権力から役に立つものだけをひきだせばいい、と思っているんです」。---- この奇跡的な感性が、まさに権力の移行期に輝き、平和裏に事が進んだと司馬氏は見ている。実際、そうだったのだろう。

 1988年に蒋経国総統の死で李登輝が副総統から昇格してからまもなく20年。台湾経済は更に発展し、政権は当時政党としてさえ認められていなかった民進党にある。政治の様子は、私達の日本と余り変わらない普通の政争にあけくれているようでもある。

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「ニューヨーク」猿谷要 1929-1989頃

 人が集まるところに生活が立ち、政治が生まれ、商売が始まり、文化・娯楽が栄え、世界との交流が拡大し、問題が起き、苦しみ、また再生する。このNYの物語は1989年まで。

 NYが政治やビジネスのみならず、音楽・演劇・文学・エンターテイメントでも多彩な異彩・人士を魅了し集める理由が、そこに棲む人々の多彩さ・モザイク性と移民文化に根ざすチャレンジ精神に有る事を感じた。

大恐慌とラガーディア市長、戦後の繁栄

1929年10月24日木曜日、この日ウォール街から株価は暴落を始めた。工場・銀行は閉鎖され、街中に失業者が溢れた。このどん底期の1933年に、FHラガーディアが市長に就任した。「身長はわずか150センチ、相当な小男だが、がっしりした身体つきで、声はかん高いキーキー声、そして実によく笑った。頑固で他人の批判を受けれないような面があった。それでいて、正直で親切、他人に思い遣りが深く、ユーモアのセンスの恵まれていた」。市長は、スラム街の住宅政策に着手、公園新設、動物園再建、プール、テニスコート、ゴルフコース、高速道路、橋梁、空港、地下鉄を建設した。汚職取締りにも成果を示した。1939年には万博、4500万人が参観。1945年勝利の終戦時、NYは無傷のまま、都市としての完成度を高めていた。

1952年、国際連合の本部がNYに置かれた。戦後の好況に乗って、新しい建築ブームが起きた。メトロポリタン博物館(MMA)、モダンアート博物館(MOMA)もこの頃整備された。マディソン街に加えてソーホーにもアートギャラリーが広がった。ミュジカルもブロードウェイだけでなくタイムズスクウェアへと広がる。

爛熟と変貌

1950年代半ばより、南部で黒人革命が始まっていた。都市のスラム街に住んでいる黒人達、特に若年層にやりきれない怒りが漲っていた。1963年ワシントン大行進、ケネディ暗殺、翌年公民権法成立。そして、1964年7月、ハーレム暴動発生。これはその後に人種暴動の口火となった。

1965年、NY大停電。1967年からベトナム反戦運動がコロンビア大学で高まる。1968年、プラハの春は打ち砕かれ、亡命者がまたNYを目指す。

1980年、NYの黒人人口は178万、全人口の25%を超えた。その多くが職を得られず、社会福祉の世話になり、財政を圧迫した。また、スペイン語系住民が急増した。80年の人口は140万人。低所得者層が増え、70年代半ばNYは重大な財政危機に見舞われる。NYはリッチとプアーに分かれたが、70年代後半よりウォール街の好況でNYは徐々に立ち直っていく。1977年に市長に就任したエドワード・コッチは、白人下層中産階級の圧倒的支持を得て三期勤めた。そして、1989年、初の黒人市長D.ディンキンズが就任する。

NYは、多様化、モザイク化しながら漸進していく。

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「ニューヨーク」猿谷要 1880-1930頃

 いよいよ今のNYの原型が固まり始めた時代になる。摩天楼エンパイヤ・ステート・ビルができたのは、1931年。

世紀を越えて、多様な文化・人種の大都会へ  

 1880年から1920年までの40年間にアメリカに上陸した移民の数は2300万人以上、その内1700万人以上がNYに上陸した。それまでの移民の中心は、イギリス、オランダ、アイルランド、ドイツ、北欧などだったが、この頃から東欧や南欧の移民、ロシア、ポーランド、オーストリア、ハンガリー、イタリー等から急増し始めた。多くのイタリー人は教育を受けていなかったので熟練労働には適さず日雇い労働者として働く者が多かった。イタリー人は、1930年代の絶大な人気のラガーディア市長やマフィアのボス、音楽、演劇、映画等で多彩な人士が活躍した。また、同じ頃、東欧系ユダヤ人も大挙して移民し、NYのロワーイーストサイドに住んだ。ユダヤ人は都市に住む傾向が強く、教育を重視し、半熟練労働から知的労働へ進出していった。20世紀に入り、NYの人口の約4分の1をユダヤ人が占め、ジューヨークとも呼ばれた。
 マンハッタン島の南端バッテリー公園の建物は1855年より入国審査所になっていた。その後、自由の女神のすぐ近くにあるエリス島に移された。多くの移民が、自由の女神を見ながら、この新天地に上陸した。

 1879年、エジソンが実用白熱電球を発明して以来、電気が生活のあらゆる部分に浸透、エレベータが実用化し、高層ビルが建ち始めた。1887年、13階建てのタワービルが出来た。地下鉄1904年「シティホールからハーレムまで15分」を合言葉に開通。A.グリーンは公園の整備、博物館設立、メトロポリス構想で都市の整備と生活の改善を行った。

20世紀初頭 黒人文化、都市文化の発展

 第一次世界大戦が始まると労働力不足が顕在化、南部農村で貧しく働いていた黒人が集団でNYはじめとした北部諸都市へ移住してきた。西部開拓時代に次ぐ、アメリカ2番目の人口移動だった。黒人が集中して住む事により、連帯感が高まり、文学・音楽・演劇等各分野で黒人特有の文化が開花し、「ハーレム・ルネサンス」と呼ばれた。文学では、ジェームズ.ジョンソン、クロード・マッケイ、ジーン・トゥーマー、カウンティ・カレン、ラングストン・ヒューズ、アーナ・ボンタン。音楽では、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ホール・ジョンソン、アビイ・ミッチェル、ライオネル・ハンプトン、ジョセフィン・ベーカー。。。。

 O・ヘンリーはニューヨークの庶民生活を哀愁を込めて描いた。F.フィッツジェラルドは、戦後の華やかな時代を嗅ぎ取った小説を書いた。彼を発掘したのは編集の神様と言われるマックスウェル・パーキンス、他にヘミングウェイも見出している。この時代の編集者、新聞記者、演劇評論家、作家が集まったホテルがアルゴンクィン、五番街に近い4丁目にある。近代写真の道を切り開いたのがアルフレッド・スティーグリッツで、彼が心を奪われた女性が画家のジョージア・オキーフ

繁栄の1920年代

 1919年禁酒法が施行。もぐり酒場(スピーキージー)が登場した。特に、テキサス・ギナンと呼ばれた陽気、妖艶、騒がしく、ユーモアがあり、派手・浪費・宝石という言葉が似合うこの女性の店は、何回も逮捕されながらも、益々有名となり、人気を博した。

 第一次世界大戦で買ったアメリカは巨大な債権国となり、物質的な繁栄に向う。NYに世界最初の大衆消費社会が出現した。自動車、ラジオが普及。「リーダース・ダイジェスト」「タイム」「ニューヨーカー」等の雑誌の創刊。演劇・音楽のブロードウェイに加えて情報・出版・広告のマディソン街が注目を浴びる。1927年、リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行。NYヤンキースのベーブルースが年間60本のホームラン王に。映画はサイレントからトーキーへ。市場は遊び好きのジミー・ウォーカー。女性のスカートは短くなり、長袖が半袖・袖なしに、口紅つけて、密蔵酒飲んで、当時の新人類が登場。この1920年代、「フラッパーの時代」と呼ばれた。

 1910年に約480万だった人口は、1930年には700万人近い大都会になっていた。人々はNYから脱出するか、上に伸びるか。1930年、レキシントン・アベニュー42丁目に優美なクライスラービルが出来た。そして1931年に、アールデコの直線美を生かした102階のエンパイア・ステート・ビルが完成した。

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「ニューヨーク」猿谷要 17-19世紀後半

少し古いが猿谷要の「ニューヨーク」(文藝春秋、1992)を読んだ。911前に書かれたものだが、街の発展を上手にまとめている。本に沿って、エポックをまとめておこう。しばしば訪ねる街の人々と歴史を知る事は、より訪問を楽しくする。

17世紀 NYの始まり 

 記録では1524年、イタリア人航海者ヴェラツァ-ノが初めてNY湾を航行した記録があるが、この土地がヨーロッパ人の手に渡ったのは「史上最大のバーゲン」と言われる1626年にオランダの西インド会社がインディアンから今で言う100ドル程度で買い取り、ニューアムステルダムと名づけた時になる。しかし、1664年、周辺で植民地を拡大していたイギリスはオランダからこの地を接収し、ヨーク公の名を称えてニューヨークと改名した。1664年当時のニューアムステルダムの鳥瞰図をニューヨーク博物館で見る事ができるそうだが、それを見るとNY南端にできた小さな集落と北端にある防壁のウォールとそれに繋がるブロードウェイが見える(これがウォール街と今のブロードウェイに発展したわけだ)。

18世紀 自由と独立革命

 1735年、後に”アメリカの自由を飾る宝石”と言われたエポック、ゼンガー裁判勝訴がある。総督に対し批判的記事を掲載していた新聞の発行者が誹謗罪で訴えられたが無罪を勝ち取った時である。総督絶対の時代に一石を投じた。1765年、NYでは保守派(国王支持派)と進歩派「自由の息子」がせめぎあう中、印紙条例に反対、イギリス商品不買運動を起こしている。1775年に独立戦争が始まり、1776年世界最強のイギリス軍がNYに侵攻、占領し、以後7年国王派拠点となった。1783年、アメリカとイギリスの間に平和条約が結ばれ、NYの国王派とイギリス軍は撤退、ワシントンが入場する。ワシントンがNYを離れフィラデルフィアの大陸会議に出席する折、NYのFraunces tavern Restaurant で感動的なお別れの宴が開かれたそうだ。その後、NYではアレクサンダー・ハミルトンがリーダーとなりNYと国家の発展に尽くす。彼の論文は「フェデラリスト」として出版され、建国時代の思想を代表する古典となっているそうだ。1789年、NYでワシントンの大統領就任式が行われ、NYは新国家の首都となった。この頃、ハミルトンとT.ジェファソンが対照をなしながら新国家建設でワシントンを支えていた。「アメリカ資本主義の父」と呼ばれたハミルトンは、政敵のアーロン・バーとハドソン河畔で決闘し亡くなる(1805)。

19世紀前半 産業化とNYの急速な発展

1807年、この河でロバート・フルトンが外輪の蒸気船クラモント号を建造、オルバニーまでの240kmを遡り、交通新時代の夜明けを告げた。1825年、エリー湖と大西洋を結ぶエリー運河が開通している。1818年、424トンのモンロー号がNYからリバプールに向けて出航、ここに大西洋航路がスタートした。NYはヨーロッパとの貿易の中心地として更に発展していくことになる。この頃、JJアスターATスチュワートなどの起業家が次々とNYを拠点に経済活動を展開、富を蓄えていった。1853年第二回万国博覧会がNYで開催される。1820年に人口12万だったNYは、1860年には81万人になり、100万都市が目の前に成るほど急成長していた。

19世紀後半 独立戦争後も都市化加速 

1860年、リンカーン51歳、初めてNY(Cooper Union Institute)で演説、1861年に大統領に就任、そして内戦、南北戦争に突入した。1863年、ペンシルバニアのゲティスバーグ、ミシシッピ川ヴィックスバーグで激戦があった頃、NYでは徴兵への不満から暴動に発展した。南北戦争は北軍の勝利で終わったが、双方で60万人以上の人命の犠牲を払った。しかし、戦後、NYの発展は益々加速する事になった。1873年、人口過密化の中で1844年にW.ブラントやA.ダウニングが提言した「都市の肺」セントラルパークが完成。この頃、Tammany Hallを足がかりに、NYの政治を汚職と腐敗で牛耳ったのがウィリアム・トゥイード。しかし、最後は78年刑務所で世を去る。1883年、J.ロウブリング技師の執念に始まり、14年の歳月、20人の殉職者を出したブルックリン橋が開通。開通式の日、約10万人が橋を渡ったと言う。1886年、最初の発想から21年目、ベドロウ島に「自由の女神」が立った。除幕式の日、クリーブランド大統領を迎え、約100万人がイベントに参加したと言われている。1888年、NYは大吹雪に見舞われる。電線の地下化はこの時に始まったといわれる。

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「孫文」 陳瞬臣

山田良政君ハ弘前ノ人也 庚子(一九○○年)閏八月革命軍恵州ニ起ツヤ 君ハ挺身シテ義ニ赴キ遂ニ戦死ス 嗚呼其レ人道ノ儀牲、興亜ノ先覚也 身ハ殞滅(インメツ)スト雖モ 志ハ不朽ナリ  民国二年二月二十七日 孫文謹撰抃書

 中国共産党、台湾国民党双方から「革命の父」と崇められる孫文は、日本との関係も深く、宮崎滔天や犬養毅等協力者もいれば、また、革命の基盤組織となる中国同盟会も1905年に東京で結成されている。上記の碑文は、孫文が、惠州蜂起の際に亡くなった日本人協力者山田良政に捧げたもの。

 この小説は、1895年の重陽蜂起から1911年辛亥革命までの孫文の跡を追ったもの。初めは体制内改革の建白書を出したが、その後、共和制革命に転換、海外を廻り、同志を募り、ついに辛亥革命で清朝を倒し、アジア初の共和制国家を樹立した。

 孫文が成功した理由は、第一に人間的魅力があった事だろう。多彩な人士を擁する会党、そして民族主義に目覚める若い留学生、海外諸国の人士・世論を味方にしていく。革命成就まで多くの同志を失っているが、彼らの思いを背負いながら、決して失望せず、楽観を失わず前進した。第二にメッセージが明確だった。「韃虜ヲ駆除シ、中華ヲ恢復シ、合衆政府ヲ創立スル」-清朝を倒し、共和制を樹立する、また後に有名になる「民族・民権・民生」の三民主義。そのメッセージは分かりやすく、意見を結集し、新しい時代を創ろうとする人々を奮いたせた。

 日本の明治維新と異なるのは、幕末期、日本には将軍と対峙できる王(天皇)という中心が存在し、それが近代化の中の旗頭となり立憲君主制に向った。しかし、清には易姓革命という歴史から並立する存在や、また中国人という概念も当時は失われていた。その結果、清の弱体化は欧米帝国列強の中国侵食という形になった。そうした状況下、孫文(非支配階級出身)が選んだ道は共和制であり、総体としての「中国人」回復という道だったと解する。

 人がより住みやすい世の中を求めて「体制の変革」に乗り出す時代、今日の小市民的な幸福の追求とは異なった魅力が発散している。孫文が体制内改革から革命思想に転換した契機は何か、そこについてもう少し知りたいと思う。

参考:
中国の歴史 19世紀 アヘン戦争から西太后の時代(清の衰退)
中国の歴史 20世紀 清の滅亡から中華民国・中華人民共和国誕生まで

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中国の歴史 20世紀 清の滅亡から中華民国・中華人民共和国誕生まで

1905 中国革命同盟会結成
1911 辛亥革命
1912 中華民国成立、清王朝滅亡、袁世凱臨時大総統に
1915 21カ条要求、文学革命
1919 五・四運動
1920 中国共産党結成
1924 第一次国共合作
1927 上海クーデター、毛沢東江西省井崗山に革命根拠地
1931 満州事変
1932 満州建国
1933 長征開始
1936 西安事件
1937 盧溝橋事件と日中戦争始まる、第二次国共合作
1945 日本敗戦、国共内戦再開
1949 中華人民共和国建国
1966 文化大革命始まる
1976 周恩来、毛沢東亡くなる
1978 日中平和友好条約調印

孫文の革命運動出発(1895)、辛亥革命(1911)

 清王朝が衰退の中、清王朝打倒を目指す動きがでてきた。1895年、広州で策を練っていた孫文はその計画が知れ、あやうくつかまるところだったが、日本に脱出。ハワイ、アメリカ、イギリス、そして日本に戻り、宮崎滔天の支援を受けながら、革命運動の拠点とした。日露戦争で勝利した日本を見て、中国から多くの留学生が日本に集まってきた。1905年、東京で中国革命同盟会が成立、孫文が総理となる。孫文は、民族主義(漢民族)、民権主義(民主共和制)、民生主義(国民の生活の安定)を柱とした三民主義を唱え、革命が目指す柱とした。
 1908年、光緒帝と西太后が相次いで亡くなると、清王朝最後の皇帝溥儀(宣統帝)が即位、父親の醇親王が皇帝に代わり政治を行った。1911年武昌での反乱がきっかけで、全国22省の内14省が清からの独立を宣言した(辛亥革命)。1912年、革命軍は、孫文を呼び戻し、臨時大総統に選び、国名を中華民国とし、アジア史上最初の共和政権を打ち立てた。
 しかし、軍閥の袁世凱が、交渉で、清王朝打倒と引き換えに中華民国総統の地位を手に入れ、独裁政治を始めた。孫文らは国民党を結成、袁世凱に対抗したが破れ、日本に亡命、共和政権は1年で潰れた。

第一次世界大戦(1914)と二十一か条要求、文学運動、五・四運動(1919)

 1914年、第一次世界大戦が始まり、連合国側についた日本は山東省に進出。ついで、中国政府に、山東省や南満州鉄道などの利権等を要求する21か条要求をつきつけた。袁世凱はこれを受け入れ、中国民衆はこの日を国恥記念日と呼んだ。袁世凱は皇帝になろうとしたが、人々は反対、1916年失望の中、亡くなった。
 陳独秀、魯迅らは人々の啓蒙の為、この頃より文学運動を展開、狂人日記、阿Q正伝などを発表し、人々の心に影響を与えた。1919年、北京大学の学生の抗議運動をきっかけに 21か条要求廃棄、軍閥打倒の五・四運動が起きた。この運動の高まりに驚いた中国政府は、ベルサイユ条約受け入れ拒否を発表した。

共産党の結成(1921)と第一次国共合作、国共内戦、日中戦争

 1917年、ロシア革命によりソビエト連邦が成立、ソ連は世界の革命運動支援の為コミンテルンという組織を作った。そうした、ロシア革命の影響を受け、1921年、杭州で中国共産党が結成された。
 1921年、桂林でコミンテルンのマーリンの助言の元、孫文は中国革命の為、共産党との連携を決断、1924年、広州での中国国民党第一次全国代表大会で国共合作を発表した。しかし、翌1925年、「革命いまだ成功せず」との言葉を遺して、孫文は59歳の生涯を終えた。
 1926年、蒋介石率いる10万人の軍隊が、列強と手を結ぶ軍閥打倒の為、北伐を開始し、武漢を占領した。しかし、国民党と共産党の関係は長く続かず、翌27年上海クーデタが起こり、多くの共産党員や労働者が殺された。蒋介石は共産党に対する弾圧を強めていった。
 1928年、蒋介石は、東北の軍閥張作霖を倒し、北京に入城した。一方、共産党率いる毛沢東は、1931年、瑞金で中華ソビエト共和国臨時政府を樹立、主席に選ばれた。
 この頃、日本は、中国東北地方への進出し、1932年、傀儡の満州国を建国した。蒋介石は、共産党打倒を優先し、1933年、瑞金の紅軍を包囲、毛沢東らは脱出し、以後、延安までの12000kmに及ぶ長征と呼ばれる大行軍を行った。毛沢東は延安を革命拠点とした。
 1936年、延安の紅軍討伐の為に西安の張学良を訪れていた蒋介石は、幽閉され、共産党と協力して日本軍に立ち向かうことを求められた(西安事件)。蒋介石は了解、以後、協力して日本軍と戦う事になった(第二次国共合作)。
 1937年、盧溝橋事件をきっかけで日中戦争が勃発、以後長い戦争が続く。

中華人民共和国の成立

 1945年、日本の敗戦で戦争は終わり、1946年、再び国共内戦が始まった。
 1949年、人民解放軍と呼ばれるようになった共産党軍は、上海を開放、蒋介石は台湾に逃れ、ここに内戦は終結した。1949年10月1日、天安門広場で中華人民共和国の成立が宣言された。

(中国の歴史(集英社)よりメモ)

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中国の歴史 19世紀 アヘン戦争から西太后の時代(清の衰退)

林則徐の登場、アヘン戦争と南京条約

 清王朝は、諸外国との貿易を広州一港に限り公行と呼ばれる商人の組合だけに許していた。依然は、中国の茶のイギリスへの輸出が大きかったが、イギリスはアヘンをインドから中国に輸出することにより莫大な利益を上げるようになっていた。アヘンは苦しい生活をおくる中国民衆の間に広がり、アヘンを買うために中国の銀がどんどん流出しった。1839年、道光帝の命を受け、林則徐はアヘンの密貿易をやめさせるため広州に乗り込んだ。林則徐の取り締まりにより、イギリス商人は広州から出て行った。清のアヘン取締りに対し、産業革命で力を蓄えていたイギリスは、1840年、清に対して戦争をしかけた。1842年、清は南京でイギリスと講和条約を結び、香港のイギリスへの割譲、広州・厦門・福州・寧波・上海5港の開港、イギリス商人のこれら5港での安全と自由の確保、公行の外国貿易独占の停止、などを決めた(南京条約)。その後、清は、米国と望厦条約、フランスと黄埔条約など不平等条約を結ぶことになる。

太平天国の乱(1850-1864)、天津条約(1858)、北京条約(1860)

 1850年、生活に苦しむ農民たちは、洪秀全が説く太平天国を夢見て清王朝に対し反乱を起こす。洪秀全は、1853年南京を落す。一方、イギリスは、清への圧力を強めるため、1856年のアロー号事件をきっかけに出兵し、1858年には清と新たに天津条約を結ぶ。天津条約で、イギリス・フランス連合軍は外交官の北京駐在、外国人の旅行権、賠償金、キリスト教布教の自由などを清に対し認めさせた。1860年には、イギリス・フランスの連合軍が北京を占領し、円明園を焼いた。清は北京条約を結ぶ。この条約で、新たに天津の開港、九竜の割譲、賠償金支払いなどが追加された。一方、この頃、太平天国軍は、湘軍率いる曾国藩や淮軍率いる李鴻章に攻められ、1864年首都に定めていた南京は陥落した。

西太后の時代―清仏戦争、日清戦争、戊戌の変法、義和団事件

 1861年、同治帝の母、西太后が権力を握った。西太后は保守的で、海外帝国列強に実力を理解せず、また時代に対応した改革にも乗り出さず、1884年、越南(ベトナム)をめぐり、清仏戦争を起こすが敗北、その結果、越南はフランスの植民地となった。1894年には、朝鮮半島をめぐり日本と戦争(日清戦争)し破れ、下関講和条約を結ぶ。この結果、日本は朝鮮進出の足がかりを得たが、遼東半島は割譲されたものの、後ロシア・ドイツ・フランスの干渉で清に返した(三国干渉)。帝国列強は、中国を半植民地化していった。1898年、康有為は、日本の明治維新に習い、政治改革に着手したが、保守派の西太后に抑えられ、主な指導者は殺された(戊戌の変法)。1900年、清王朝を助け外国勢力を追い払おうとした義和団事件が勃発する。清王朝はこれに乗じて外国勢力に宣戦したが、列強連合国軍にけちらされ平定される。清は再び、莫大な賠償金を列強に支払う事になった。

(「中国の歴史」(集英社よりメモ))

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中国の歴史 18世紀 清の繁栄

擁正帝の時代(帝1722-1735年)

康熙帝の後を継いだ擁正帝は、兄弟を追い出すとともに跡継ぎを定める方法を決めた。玉座の上の「正大光明」と書かれた額の裏に、跡継ぎの名を記したものを置き、皇帝の死後開封されるようにした。擁正帝は、軍機処を置くなど、在位13年の間に、皇帝の独裁体制を確立した。

乾隆帝の時代(帝1735-1795)

乾隆帝は、漢民族の文化を保護する一方、清に批判的な書物・人物は徹底弾圧した(文字の獄)。全国から学者を集め「四庫全書」と呼ばれる大叢書を10年かけて完成させた。また、カスティリオーネに設計させてヨーロッパ風の味も取り入れて円明園の離宮を完成させた。 しかし、清王朝の繁栄の一方、庶民の暮らしも厳しく、乾隆帝の後を継いだ嘉慶帝の時に、白蓮教徒の乱(1796-1804年)が起きている。

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中国の歴史 17世紀 明の滅亡、清の中国支配

ヌルハチ(後金)からホンタイジ(清)へ

 秀吉との戦争で、明も疲弊、財政も悪化したが、万暦帝は相変わらず無策無為で、明の国力は落ちていった。

 1616年、北方の女真族のヌルハチが部族を統一してハンを名乗り、1618年、明に侵入。1619年中国東北部のサルフで大戦闘があり、ヌルハチ軍が勝利した。同年、ヌルハチ(太祖)は王国の名を後金とした。この後、1636年、第8子のホンタイジ(太宗)が即位、国名を清と改めた。

明の滅亡(1644年)と清の北京入城

 この頃、明に対する反乱軍が集まり、李自成(大順王)が指導者として明を攻め立てた。1644年、李自成は北京を包囲、明が滅びた。明の将軍、呉三桂は、清軍の侵入を防ぐため山海関を守っていたが、李自成が明王朝を倒したのを聞き、清と手を結び、北京の李自成を倒した。その後、清の世祖順治帝が紫禁城に入城したのである。

鄭成功の抵抗

 清軍に追われて南へ逃れた明軍によって立てられた永暦帝を支えたのが、父が中国人、母が日本人と言われる鄭成功だった。鄭成功は厦門を拠点として清軍と戦った。強力な海軍で清軍を苦しめたが、1661年、台湾海峡を渡り、台湾をオランダ支配から開放、明再興の拠点としようとした。しかし、夢の途中で熱病に倒れ亡くなる。38歳だった。

康熙帝の時代(1661-1722年)

 康熙帝は、清王朝を助け、土地を分け与えられた呉三桂ら三藩の平定に着手した。1673年、呉三桂はついに兵を起こし、一時周王朝を立てたが、やがて清に平定された(三藩の乱1673-1681)。続いて、台湾も平定され、ここに清は康熙帝のもと、中国完全統一を成し遂げた。その後、ロシアとネルチンスク条約を結び国境を画定(1689年)、続いて外モンゴル平定(1696年)、チベット支配(1720年)を完成させ、清王朝繁栄の道を開いた。

(「中国の歴史」集英社よりメモ)

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中国の歴史 16世紀 北虜南倭

 16世紀中頃、12代世宗嘉靖帝の頃、北のモンゴル軍の侵入、南の倭寇に悩まされた。神宗万暦帝(帝1572-1620)の初期の時代、張居正(1525-1582)は、一条鞭法等の行財政改革で明の財政を立て直した。1592年、豊臣秀吉が朝鮮出兵を起こした(文禄の役)。この時、李舜臣は亀甲船を仕立て、朝鮮水軍を率いて、日本軍を破っている。1597年、再度秀吉は朝鮮出兵(慶長の役)したが、1598年秀吉が亡くなり兵を引き上げた。 (「中国の歴史」集英社よりメモ)

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中国の歴史 15世紀 明の勢力拡大と大航海時代

永楽帝の治世(1402-1424年)と大航海時代

 洪武帝の後を継いだのは孫の建文帝(恵帝)。しかし、洪武帝の子供が各地の王となっていたため、叔父である各地の王は目障りで少しずつ取り除いていった。洪武帝の息子で最も力があったのが四男の燕王で、北方の守りについていた。燕王は先手を打って、靖難の役を起こし、1402年、首都の南京城を落とした。燕王は、同年南京で即位、成祖永楽帝となった。 

 1403年、永楽帝は北平(北京)に移った。この時、紫禁城を建設した。1421年、都を北平に移し、名前を北京に変えた。また、永楽帝は、学者を集め「永楽大典」という大百科全書を作らせた。 

 1410年から、永楽帝は5回に渡り兵を率いてモンゴル遠征したが、滅ぼす事はできなかった。一方、大明帝国の栄光を知らしめ朝貢させる為、鄭和に命じて、南海の国々に向わせた。鄭和は、チャンパ(ベトナム)、ジャワ島、マラッカ海峡、スマトラを経て、コロンボ、最後はインドのカリカットまで達する大航海を行った。この後、鄭和は計7回の航海を行い、ペルシャ湾のホルムズ海峡、また部隊の一部は東アフリカのマリンディまで達している。中国の大航海時代を切り開いた鄭和は、1433年に亡くなった。ヨーロッパの大航海時代(15世紀末)よりも一足早かったのである。

土木の変(1449年)

 15世紀中頃から明の力も揺らいでくる。1449年の土木の変では、明軍はオイラート軍に大敗し、正統帝が捕虜にされ、連れ去られるという事件が起きた。この後、政治家干謙は、北京に侵入してきたモンゴル軍を追い払う。明は、以後、万里の長城を築き直し、守りに徹していく。

(「中国の歴史」集英社よりメモ)

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中国の歴史 14世紀 元の衰退と明の中国統一

紅巾の乱(1351-1366年)

 元は財政危機を、民衆からの徴税強化、交鈔(元で使われた紙幣)の乱発、専売(塩や茶)の強化で乗り切ろうとしたが、日照りや洪水も相次ぎ、民衆は疲弊していった。そして、1351年、白蓮教徒達が中心になり元に対して反乱を起こした。これを紅巾の乱という。この時、朱元璋(後の明の太祖、洪武帝)は、紅巾軍の指導者の一人郭子興の軍に入り、頭角を現していき、郭子興が亡くなった後を継いだ。1355年、紅巾の乱の最高指導者、韓林児は小明王を名乗り即位、亳州を都に定めて国号を宋とした。しかし、重臣たちの争いが続き不安定な状況下、朱元璋は、承相の劉基とともに、張士誠や陳友諒など各地の首領を倒し、実力を蓄えていった。

洪武帝による明の中国統一(1368年)

 そして、1368年、応天府(南京)において、朱元璋は国号を明と改め、年号を洪武とし、皇帝(洪武帝)になり、ここに明王朝が成立した。明軍は、同年8月、元の大都を落し、ここに漢民族の王朝が復活した。洪武帝は、土地台帳(魚鱗図冊)、戸籍簿(賦役黄冊)を作り、里甲制などの農業政策をとり農民の生活の安定に力をいれた。 しかし、重臣達の動きに不信を持った洪武帝は、後に、胡党の獄、藍玉の獄などで5万人を超える部下やその一族を抹殺していった。その結果、皇帝の権力は一層強まった。1398年、洪武帝は71歳の生涯を閉じた。

(「中国の歴史」集英社よりメモ)

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中国の歴史 13世紀 モンゴル・元の時代

 日経新聞朝刊で堺屋太一の「世界を創った男チンギスハン」が連載されている。より味わって読む為、この時代以降の中国の歴史について集英社の「中国の歴史」でざっと読んだ。メモしてまとめておく。

12世紀後半 チンギス・ハン、モンゴル草原の支配者へ

 中国北方の広大な大草原で後の英雄チンギス・ハンになるテムジンが生まれたのは1155年、1162年、1167年などの説がある。父は、モンゴル族の中のボルジキン族の族長のイエスゲイ、母はオンギラト族出身と言われるホエルン。しかし、テムジンが幼少の頃、父イエスゲインは亡くなった。一説には、ライバルのタタール族に毒を盛られて死んだとも言われている。テムジン一家は、タイチウト族など他の部族に襲われたりしながらも何とか生き、乗り越えていった。後にジャダラン族の族長になるジャムカと義兄弟(アンダ)となったのもこの頃である。テムジンは母と同じオンギラト族出身のボルテと結婚する。

 この頃、北方遊牧民族の中で力を持っていたのはタタール族とケレイト族。父イエスゲイと義兄弟の契りを結んでいたケレイト族のトオリル・ハンと、テムジンは親交を結んだ。ある日、メルキト族の襲撃で、テムジンの妻ボルテがさらわれた。テムジンは、トオリル・ハンとジャムカの応援を得て、メルキト族を打ち倒し、妻ボルテを取り返した。テムジンの勢力はこれを機に更に拡大した。テムジンはジャムカと、この頃、ともに遊牧生活を送っていたが、やがて分かれた。

 テムジンの勢力は更に伸張し、やがてジャムカの軍と衝突する。これを十三翼の戦いという。この時、ジャムカ軍には負けたものの、勢力は着実に拡大していき、他の部族を脅かす勢力となっていく。敵のタイチウト族やタタール族は連合し、長(ハン)にジャムカがなり、グル・ハンと名乗る。テムジンはトオリル・ハンと組んで、タイチウト族、更に金と挟み撃ちでタタール族を滅ぼしていく。

13世紀前半 チンギス・ハン、オゴタイ・ハンの時代

モンゴル草原の平定と帝国の誕生(1206)

 テムジン勢力の巨大化を警戒したトオリル・ハンはジャムカと手を結ぶが、1203年、テムジンはトオリル・ハン軍を打ち破り、ケレイト族を滅ぼず。更に、ナイマン族、メルキト族も打ち破りモンゴル草原を平定した。1206年、草原のすべての部族の代表が、オノン川に集まり、部族長会議クリルタイが開かれ、テムジンは、モンゴル全部族の長、チンギス・ハンとなり、ここにモンゴル帝国が誕生した。

西夏、金、を陥れる

 モンゴル平原を平定したチンギス・ハンは、西方の国との国交・交易による富を狙って侵攻した。1209年、西夏の黒水城(カラホト)を攻め落とし、首都の興慶を攻めた。西夏王は、降伏・和睦した。 次に、1211年、万里の長城を越え、東方の金に攻め込んだ。首都の中都(北京)を攻め、1214年、金は降伏、チンギス・ハンは兵をたたみ平原に引き上げた。1215年、再び金に侵入、中都を陥れるとともに、黄河以北の地を占領した。この頃、金の家臣だった、耶律楚材(ウルト・サガル)を採用、後、彼はチンギス・ハンの信頼を得て、モンゴル帝国の経営に力を発揮、その発展の礎を築いた。

モンゴル西方大遠征の始まりとチンギス・ハンの死(1227年)

 1218年、モンゴルの使者と隊商がイスラム教徒の国ホラズム(今のイラン)を向かったところ、ホラズムの役人に捕らえられ、全滅した。怒ったチンギス・ハンは20万の大軍を率いてホラズムに向かって出撃した。商都サマルカンドを落し、国王ムハマンドは逃げ出し、王子ジェラール・ウッディーンもインダス川に追い詰められ、川に飛び込んだと言われる。支隊のジェベ・スブタイ軍はイラン高原の都市を次々と落した後、南ロシアにも攻め込み征服した。1224年、この遠征は終わる。そして、1227年8月、西夏攻撃中、チンギス・ハンは波乱の生涯を終え、モンゴルのブルカン山に運ばれ埋葬されたという。現在もその場所は知られていない。

金の滅亡(1234年)

 チンギス・ハンの死後2年後、オゴタイが第2代ハン(ハン1229-1241)に選ばれた。オゴタイは金を攻め、首都汴京を包囲、1235年、首都を逃げ出した金の皇帝は自殺し、ここに金は滅亡した。翌年、モンゴル高原に首都カラコルムを建設した。

バトゥの西方遠征(1236-1241年)

 オゴタイは、ヨーロッパ遠征をバトゥに命じた。この遠征はヨーロッパ人を震い上がらせた。バトゥは、まずロシアに入り、モスクワ、ウラジミール、キエフを次々と落した。更に東欧に侵入、ハンガリー、ポーランド、ドイツの諸都市を征服した。1241年、モンゴル軍はドイツとポーランドの連合軍を破っている(ワールシュタットの戦い)。しかし、同年末オゴタイが亡くなった為、バトゥは全軍を引き上げた。

13世紀後半 元王朝の成立と中国全土の支配

アッバース朝を滅ぼす(1256年)

 第4代ハンについたモンケ・ハンは、弟フビライに中国西方のチベット・雲南を、弟フラグにイスラム勢力討伐を命じた。フラグは、1256年に暗殺教団の拠点アラーム砦を、1258年にバクダッドを攻め落としアッバース朝を滅亡させた。そして、満を持したモンケは、フビライと共に全中国の支配を目指して南宋攻めを始めた。

フビライによる元朝の成立と南宋の滅亡(1279年)

 南宋攻めの最中にモンケ・ハンは亡くなり、後を継いだ第5代ハン、フビライ(ハン1264-1294)は都を金の首都だった中都に移し大都大興府とよび、モンゴル帝国の首都とし、1271年、国名を元と改めた。1276年、元軍は南宋の首都臨安を占領、皇帝達は南に落ちのび、ここに元の中国支配が成立した。1279年、厓山で南宋軍は破れ、幼い皇帝は陸秀夫に抱えられ海に飛び込み、ここに南宋は滅亡した。

モンゴルとキリスト教の交流とマルコ・ポーロの来元

 モンゴル軍に荒されたキリスト教ヨーロッパでは、ローマ教皇が元に使節を送り、交流を深める事を決断した。1246年にローマ教皇使節プラノ・カルピニがモンゴルを訪ねている。1274年、当時20歳のマルコ・ポーロを含む3人のベネチア商人がフビライと謁見した。フビライに気に入られたマルコは、以後元で過ごした17年間、庇護の下、中国中を旅した。これが、後の彼の「東方見聞録」となり、東アジアの情勢が欧州に詳しく紹介された。

フビライの日本遠征と南洋遠征

 南宋、朝鮮半島の高麗を支配下に治めた元は、1274年、日本に侵攻した(文永の役)が台風の為に多数の兵を失い逃げ帰った。そして、1281年、再度日本遠征(弘安の役)を行ったが、また嵐の為、多くの兵を失い失敗に終わった。 フビライは、また、安南(北ベトナム)、チャンパ(ベトナム中央部)を降伏させ、ジャワに攻め込んだ。

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